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宮城県栗原市 若柳地織 千葉孝機業場 Y式織機独特な柔らかさと肌触り

若柳地織 千葉孝機業場

今回訪問したのは宮城県の内陸部にある栗原市若柳である。
若柳は元々絹織物が大変盛んな地域で、かつていくつもの織物工場があった。

そんな地域の中で唯一、綿織物を作っていたのが、今回お話しを伺った若柳地織の織元、千葉孝機業場の千葉孝順さんである。

若柳地織

宮城県の伝統工芸品にも認定されている若柳地織は、宮城県栗原市で生産されている。
若柳地織の創業は、明治の末期のこと。
既に100年以上の歴史がある。

創業者は、千葉孝順さんの祖父千葉孝治さん。千葉孝治さんは、もともと宮城県北の呉服屋さんの番頭だったそうである。

創業当時は手織りで作られていた若柳地織が、大きく変わるきっかけとなったのが1915年に23台購入した豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)である。

すっきりとした縞模様と無地が印象的な若柳地織だが、何といって特徴的なのが「この機械ならではの肌触りと風合い」だ。
この機械は、もともと「肌着を織る目的」で作られた。そして、今の高速織機と違い、糸を低速で織り上げていく、まさにビンテージ生地である。

この「低速で織る」ということが、とても肌触りの良い生地を生む大きな要素となっている。
織り上げられた生地は、エプロンや半纏(はんてん)、財布といった”使ってもらう品物”、「実用的民芸品」へと加工される。

若柳地織は、近年さまざまな所で取りあげられたこともあり、とても人気が出てきた。
しかし、先年の東日本大震災で、貴重な織機12台の織機のうち、その半数の6台が使えなくなってしまった。
さらに、震災前4人で作業をしていたが、震災後は1人減り、今は3人で作業を行っている。

若柳地織 千葉孝機業場

「以前なら3時間前後で、一反分くらいは出来るはずなんだけど、今は何役もやってるからね。」と、申し訳なさそうに教えて下さった。
そんな貴重な若柳地織は、千葉さん自身が全国の百貨店に直接赴き、直接お客様と対面して販売を行っている。

現在のように、千葉さん自身が対面で販売する以前には、個人顧客への販売は行なっておらず、全て呉服屋さんに直接おろしていたそうだ。
お客様と直接会う機会がなかった当時を振り返り、「その当時、恥ずかしながら”いらっしゃいませ”が言えなかったんですよ。」。

それが今では、全ての商品をお客様と対面して販売する。
その一方で、「もともとは地元で生まれで地元で育って、地元で販売してきた業種ですから、もう一回戻したいっていうものの発想を少し前からしてたんですよ。」と、地元密着型の方向へも模索を始めているそうだ。

建物

千葉孝機業場の建物は、1915年に建てられた。
余談だが、工場のすぐ近くに残っている旧くりはら田園鉄道の若柳駅舎も同じころの建物だそうだ。
工場の中に入って先ず印象的なのが、広々とした吹き抜けの天井に美しく並んだトラス構造の梁である。

若柳地織 千葉孝機業場

訪れた時はこの建物の中で、6台の織機が動き、活気のある音が響いていた。機械の音を聞きながらインタビューを終えると、

「耳は痛くないでしょ?この建物自体、音を吸収するようになってるんです。ここで何十年働いた人でも、耳を悪くした人はいないです。」

と千葉さんが教えて下さった。

この建物の窓は、北と南で高さが違う造りになっている。
南は低く、北は高い。
「南側は直射日光が入ってくるでしょ。北側は光が一回クッションにあたってから入ってくる。」

色を見る場合、北からの間接的な光が最も原色に近い色を出すそうだ。
他にもさまざまな工夫がされているこの建物は、東日本大震災で被災をした。

3月11日の地震で傷ついた建物は、さらに4月7日の揺れで柱が折れ、全体が傾いてしまった。

もともとしっかりした造りで、「こっちは大丈夫と、自負してた」建物だっただけに、「そのときは、この先続けるか悩んだ。」と教えて下さった。
この時の揺れが原因となり、12台あった貴重な機械は、6台が使えなくなった。

若柳地織 千葉孝機業場

悩んでいた千葉さんだが、地震のあとに参加した催事場で、多くの人々からの励ましの言葉をもらい、また他の地域の状況を肌で感じたことで
「いろいろ壊れたけど、自分にはまだ残ってるだろうって。まだやんなあきゃっていう気になった。」そうだ。
そして、震災の年の12月までかけて工場を直し、再び営業を始めた。

機械

千葉孝機業場で働いている織機は、1915年購入された豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)である。
既に1世紀近くを経てなお現役で働いている。

「今の社会で100年も動く機械を作ったら、会社つぶれますよねって(笑)。」
どんな機械も使っていれば、所々減ったり磨耗したりする。
これは、豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)も同じである。

しかし磨耗した場合、100年も前の機械であるため、純正部品は手に入らない。
「部品を交換するときは、この機械の次の次くらいだと思うんですけど、その部品を手に入れて自分で加工します。」

千葉さんは、自分で機械のメンテナンスから修理を行うのだ。
一方で直せない重要な部分は決して壊れないという。
「無駄のない、スムーズに動く機械を本当に考えて作ってるんだなって思いますよね。」
この機械には、今の高速織機にはない独特のリズムがある。
この独特のリズムによって織り込まれることで、とても肌触りのよい、いわばビンテージ生地が生まれる。
6台の機械が奏でる柔らかい音は、実際に来て感じる価値があるだろう。

「これで、6台全部に癖があるんですよ。」

千葉さんがこの仕事を始めた時、父親からバラバラの機械を組み立てるように言われた時から、既に長い時間をともに過ごしてきた。
だからこそ、この機械の価値を誰よりも理解し、大切にしている。

若柳地織 千葉孝機業場

千葉さんの話し

千葉さんの話しはとにかく面白い。
しかも、ところどころ冷静な経営者の目線が入り、唸らされるのだ。
話にメリハリがあり、聞いていて心地良く惹きこまれる。
千葉孝機業場について、産業としての視点を織り交ぜて教えて下さった。

後の転換期 一町一店主義

戦前から戦後にかけて織物業界は空前の好景気に沸いていた。
そんな中、当時の織物業者のほとんどが、作ったものを全て問屋さんに卸して任せていたという。

ところがその後の化学繊維の進出などにより、30年代に入ると織物産業は一気に力を失い、消えていった。
一方、千葉孝機業場では、商品販売において他の織物業者と違う方向性を持っていたそうである。

「うちのやり方っていうのは、宮城県北と岩手県南の一町一店の呉服屋さんを足で歩いて、そこに直接商品を卸す販売方法を取っていたんです。」
千葉さんが家業に入った40年代前半には、この地域の織物業者は自分のところを除き全て無くなっていたそうである。

オイルショックによる転換期 対面販売と製品割合の変更

「私が知っている範囲では、昭和30年代には若柳で絹織物の業者はなくなっていました。」
若柳で唯一、戦後の織物産業の構造変化の波を切り抜けた若柳地織であったが、昭和47年のオイルショック以降、ものが売れない時代となった。
この時期、既に千葉さんは家業を継いでいた。

「ものが売れなくなって、どう進んでいったら良いんだっていう葛藤が、オイルショックのころから始まっていたんです。そのときに一町一店主義というのは、通用しないだろうなって。」
ここで千葉さんは、百貨店での直接対面販売に舵を切る。
それと同時に、製品の割合を変えるということを行った。

若柳地織 千葉孝機業場

「昭和40年代は農作業着をメインに作っていたけど、それはもう終わりだなって。それで農作業着のほかに、今作っている実用的民芸品のほうをスタートしようと思ったんです。」
そして、この2種類を10年程度で逆転させようとしたのである。

そんなあるとき、千葉さんは仙台の百貨店で物産展に出たという。
そしてここで、千葉さん自身、その後に大きな影響を与えたというとても貴重な体験をすることとなった。

物産展に参加していた千葉さんの前に、女性3人のお客様が来るなり、
「野良着でおしゃれ着だって大きな声で言って、笑ってるんですよ。こっちは目から火花が出るくらい腹が立って。。」

この日、仙台から電車で帰ってくるまでの2時間、千葉さんにとってとても大切な時間となった。

「仙台からここまで2時間かかる。あれ30分とか1時間だったら辞めてましたよ、おそらく。カリカリして。」

そして、小牛田駅につくころようやく冷静になってきたという。

「小牛田駅まで大体1時間くらいかかったんじゃないかな。ようやく落ち着き始めたんだよ。待てよって、野良着としての若柳地織を忘れさせれば良いんだって発想になった。」そうだ。

「それで、その人たちが恩師ですよ。」
実際、それから3年から5年の間に農作業着と実用的民芸品の割合がすっかり逆転した。
「大きくは3年くらい、あとは細かいところで5年くらい。あれが例えば、10年かけてのろのろやってたら、今なくなっていたかも知れない。」
そしてさらに大きな追い風となったのが、昭和60年の宮城県伝統工芸の指定である。

既に農作業着からの転換を果たしていた千葉さんは、県の指定を得たことで、以前にも増して全国の百貨店を歩くようになった。
実はその少し前、昭和55年に一緒になったある大学の先生から、アドバイスをもらったそうだ。
「仙台で売りたかったら東京で成功しなさい。東京で売りたかったらニューヨークで成功しなさいって。そうすれば、逆に売れるようになるよって。」

弱いと思うやつが一番強いんだ

千葉さんに、「この仕事で一番難しいところは」と聞いてみたところ、とても印象的な答えが返ってきた。
「仕事で難しいと思ったらば、仕事できないじゃないかなって思うんです。よく聞かれますけど。。」

千葉さんにとって難しい仕事という質問は、とても難しいようだ。

「作業工程がありますよね。そのどこかの工程で、ちょっとでもいい塩梅(あんばい)にしてしまうと、その後の工程にずっと尾を引くんです。」そうすると、良い品物は出来ない。
「注意はしますよ。。でも難しいという発想をすると。。。」

千葉さんは、しばらく考えて、
「糸と喧嘩しないことが一番難しいって言います。糸と喧嘩して勝ったことがない。糸ともめた時にイライラして、このっ、てやったら、かえってもめちゃって。みんな切らなきゃいけなくなる。」そうすると、糸に負けたことになる。

「子供達にはそう表現します。弱いと思うやつが一番強いんだ、って」