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埼玉県吉川市 木工房シン たたき上げの職人が語るものづくり

木工房シン 高橋社長

箱物と脚物を手がける木工房シン

埼玉県吉川市に木工房シンを訪ねた。
高橋社長がこの会社を創業したのは昭和53年(1978年)。
木工房シンでは、箱物といわれる箪笥(たんす)や棚、さらに脚物(あしもの)といわれるテーブルや椅子のデザイン設計から組立、塗装までの全工程を自社で行うとともに、家具の修理再生を行っている。

これら木工房シンの特長の中で先ず注目したいのが、箱物と脚物の両方を得意としている点だ。

箱物と脚物は、それぞれ必要とされる技術が全く違う。
そのため一般的に箱物を得意とする会社と、脚物を得意とする会社とに分かれる。
木工房シンのように両方を得意としていて、さらにその両方を最初から完成まで全て自社で一貫生産しているのはとても珍しい。

木工房シン 椅子について

椅子について

脚物の中でも、特に椅子を考える上で大切な要素となるのが、技術力とデザイン力だ。
先ず技術力。
椅子には、丈夫な曲線の技術が要求される。
椅子は部材を2次曲線や3次曲線に加工し、人の体重に十分耐えうるよう組み立てる。

そもそも椅子が、本格的に日本で作られるようになったのは明治初期のこと。
それ以前の日本では、平安時代の貴族や僧侶が椅子に座っている絵がある程度で、ほとんど普及していなかった。
つまり椅子は、明治以前に既に確立されていた箱物の技術と比べると、まさに最新技術の塊なのだ。

技術力と合わせて重要なのがデザイン力だ。
椅子は直線が主体の箱物に比べて、曲線が多く使われる分デザインによって表情が大きく変わる。
曲線によって椅子の持つ奥行きの深い表情が、多くのデザイナーを魅了した。

つまり椅子には、この技術力とデザイン力という2つの要素が不可欠なのだ。
デザイン力があっても技術力がなければ、絵に描いた餅となり、技術力があってもデザイン力がなければ、椅子はなんの表情も持たない。

木工房シン 木花さんと横山さん

木工房シンの技術力とデザイン力

木工房シンの椅子は、社長の高橋さんと前工場長の木花さんとの出会いによって生まれた。
高橋さんは学生時代にものづくりを学び、木花さんは、生粋の職人だ。
【写真は左から前工場長の木花さん、高橋社長、現工場長の横山さん】

「僕はデザイン担当だから、図面や絵を描くけど、普通の職人は図面や絵の中のものを形にすると、結構ぼてっとした感じのものになっちゃうんです。でも木花さんのは格好がいい。これはセンス。もの作りにはとてもとても大切なことだよ。」(高橋さん)

独立する前から、たくさんの椅子作り職人を見てきた高橋さんは、だれよりも木花さんの凄さを知っている。

「例えば集成材。うちの集成材は、真上から見ると、人の背中に合わせて丸くそっているでしょ。普通に考えると、集成材は真っ直ぐにしかならないんです。最初にそのことを木花さんに話したら、形だけは出来るけど、椅子としてもたないって言うんです。でも5年経ったら出来るようになってた。今じゃあ、うちではみんなが作れるんです。彼が技術を考えて、みんなに教えてね。接着剤や、刃物の切れ具合とか、いろんな要素があるんだけど。それはやってくれる人がいないと絵に描いた餅だったけど、彼がいたから出来たんです。あくまでも前向きに取り組んでくれるから。それで僕は、この人は凄いと思ったな。」(高橋さん)
木花さんは、作るだけの職人ではないのだ。

木工房シン 椅子作り

木工房シンの椅子作り

椅子はとても手間がかかる割には、儲けは少ないと言われている。
それでも木工房シンは一脚一脚丁寧に椅子を作る。
先ず原寸図を書き、治具を作り、木取りの型板を作る。
特に図面は平面図、側面図、正面図からなる三面図を原寸で書くと、パソコンで製作された図面では分かりづらい図面の矛盾が分かるそうだ。

さらに、木工房シンが他の会社と違うところは、お客様の体に合った椅子をオーダーメードで製作することが出来る点だ。
人にはそれぞれ、自分にあった座の高さ、背中の角度がある。
座高と背中の角度が合った椅子は、とても座り易い。
木工房シンでは座高を合わせるのに、よく雑誌を使うそうだ。
その雑誌を重ねて床に見立てて足の下に敷く。最初は厚めの雑誌を使い、だんだん薄いものにしながら、丁度良い高さを見極めるのだ。
そして一番楽な座高が決まると寸法を取って椅子を作る。

「ショールームでは、あるものを売るんじゃなくて、お客さんが欲しいものを提供できるんです。」(高橋さん)
自分にぴったりと合った椅子は、一度座ると分かるのだ。

木工房シン 木花さん

少し前の職人の世界

前工場長の木花さんは、たたき上げの職人だ。

木花さんが故郷の新潟県長岡市から就職列車にのって上京したのは、昭和32年(1957年)3月25日。日にちまではっきり覚えている。いわゆる金の卵のはしりだ。

「最初、深川富岡町にあった会社で住み込みの見習いとして働き始めたんです。60~70人くらいの会社で、直ぐ隣が木場の材木屋でした。」(木花さん)

この工場では、大きく箱物の職人と脚物の職人とに分かれていたそうだ。
工場で働くようになって2年くらいが過ぎた頃、木花さんは工場長から、脚物をやっている新潟出身の親方につくよう言われた。
この時から木花さんと椅子の付き合いが始まったのだ。

木花さんが脚物家具を作る隣では、箱物職人が作業を行っていた。
「僕は、この時から専門は脚物です。でも、箱物をやっているのを横目で見ながら、覚えましたよ(笑)。」(木花さん)

見て覚えたのは、箱物だからというわけではない、椅子を覚えるにも、親方は手取り足取り教えてくれるわけではない。
何でも、隙あらばだ。みんな知識と技術の習得に必死だった。

さらに、職人はものを作るだけじゃない。図面も書く。木花さんもすらすらと図面を書く。図面も親方のやり方を見て覚えた。
椅子の構造を覚えるにあたっては、親方の作りかけの椅子を見るのが一番良かったそうだ。
「親方が背柱だけおっ立てて帰っちゃうとしめたもんで、どういうふうになっているか良く分かりましたよ。仕事しているときなんかにそば行くと、仕事はどうなってんだって、言われちゃうからね(笑)。」(木花さん)

道具の手入れも同じだ。
「親方が帰った後に定規持って、鉋(かんな)の場合前を削って減らすんだとかよく見ましたね。特には鑿(のみ)は砥石(といし)で研ぐのは難しくて、直ぐに刃が丸刃(刃先が鋭角ではなく丸みがかった鈍角になること)になっちゃうんです。」(木花さん)
こうして木花さんが得た技術は、今木工房シンに受け継がれている。

職人の世界は、先ず丁稚奉公3年、その後お礼奉公3年、そしてやっと職人だ。
丁稚奉公からお礼奉公が終わるまでの6年間はずっと住み込みだ。
さらに6年が過ぎ年明けとなっても、全員が職人になれるわけではない。
腕が悪ければいつまでたっても一人立ちできないのだ。

腕の良い職人の中には、20代で独立した人もいたそうだが、その前には、長い修行の時代(この時代を関西方面では丁稚(奉公)、関東では小僧ということがある)があるのだ。

休みや給料はどうだったかというと、休みは1日と15日の月2回。給料日は、みそか(月末)と14日だ。
一方で、年明け前でも腕の良い人には請負というシステムがあった。これは、それぞれの仕事に期限を決めて請け負うというもの。腕の良い人は期限前に納品して、さらに新しい仕事を取る。仕事をやった分だけ加算されるから、どんどん給料が上がっていく。
木花さんの場合は、5年目くらいから請負でやらせてもらった。

このようにみんな職人になろうと必死だった一方で、今では想像も出来ない誘惑もあったようだ。
「この時代、教習所が出来てきましてね。確か鮫洲と府中だったかな。教習所が出来ると若いものは、われもわれもと教習所に殺到したんですよ。」(木花さん)
当時、免許証さえ持てば、若くても一人前の職人と同じ給料がもらえたそうだ。「だから、免許証を取って、途中で辞めて運送屋に行ったのが何人かいましたよ。」(木花さん)

そんな木花さんの親方は、とても温かみのある人だったそうだ。
「まだ僕が見習いだったころ、何もしてないのに、他の職人に殴られたときがあってね。虫の居所が悪かったんだろうな。生意気だって言われてさ。それを僕の親方が誰かから聞いたんでしょうね。すぐに殴った人のところに飛んでいって、お前うちの弟子殴ったんだってな、って言うか言わないかのうちに、相手をぼこぼこやっつけちゃった(笑)。」(木花さん)

木花さんの師匠は木花さんとは一回りも変わらない比較的若い方だった。
「親方は道具使いが凄かった。小僧のときにかなり教わったんだろうね。本当に腕の良い人だったよ。」(木花さん)
当時はみんな中学を卒業してすぐ職人の世界に入るのだ。
そして25~26歳になると腕の違いは歴然としてくる。
同じ時間やっていても伸びない人は伸びない。職人の世界は厳しいのだ。

木工房シン 道具

道具の移り替わり

ものづくりの現場の主役は、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)といったまさに道具であった。

「私の場合は最初の会社で、年明けになった時、基本的な道具をみんな会社が支給してくれたんです。鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)ね。」(木花)

ある日、木花さんは工場長に呼ばれて、道具屋に連れていかれたそうだ。

「鉋(かんな)を一つ取ったら、鉋一つじゃ仕方ないだろって、鑿(のみ)や鋸(のこぎり)も買ってくれたんです。それまで年季奉公の間に少しずつ金ためて、道具を買ってたんだけど、当時は給料なんてほとんどなかったから、それはうれしかったね。布団の中に持っていって眺めてたよ」(木花さん)

今では木花さんは、豆鉋(まめかんな)だけでもかなりの数を持っている。
それらは新しい家具を作るたびに、形に合わせて自分で作ったものだ。木花さんに限らず職人は、自分専用の道具をどんどん増やして行くのだ。

しかし近年、こうした職人と道具の関係が変化している。
ものづくりの現場の主役だった道具はいつしか脇役となり、今では工具や機械が主役となっている。
そして職人は、自分の道具を多く持たなくなり、替わりに会社の工具や機械を自由自在に使いこなすようになった。
だんだんと需要のある技術が変わってきたのだ。
技術学校でも、道具の技術より工具や機械に多くの時間が割かれるようになった。

しかし現在、木工房シンでは全員工具や機械を自由に使いこなす一方で、しっかりとした道具の技術も社内に蓄積している。
そのおかげで、時代を経た家具の修理を手がけることができる。
時として100年を越えた家具の修理の依頼がくる。
時代を経た家具の修理は、しっかりとした技術が受け継がれている証なのだ。

木工房シン 午後のひと時

これからの木工房シン

午後のひと時、全員で一緒に座り休憩を取る。とてもチームワークが良い。
チームワークが良いのは、社内だけではない。
木工房シンは、時として他の業種の会社と協力して製品を作る。
それぞれの会社が、自分の得意な技術を持ち寄るのだ。
普通業種が違うと、きっかけがなければ一緒に仕事は出来ないものだ。

それを可能したのは、取引先の存在だ。
「うちは、良い取引先と出会えたからね。」という高橋さん。

そんな木工房シンは、今も進化を続けている。
その一つが、木工房シンが手がけているエイジング家具である。

エイジング家具とは、ディストレスという技術を使って加工したアンティーク調の家具だ。
このエイジング家具で難しいのが、きちんとした家具に時間の経過や人が使った痕跡といったストーリーを刻むことだ。
しかもエイジング家具は、このような何年も使われたような風合いが求められる一方で、新品と同じ耐久性が求められる。
これらを可能しているのが、木工房シンが培ってきた確かな技術力なのだ。

木工房シン フラッシュ加工

ちょっと一息~フラッシュについて~

日本の家具の特徴の一つがフラッシュ構造だ。
フラッシュ構造を簡単にいうと、芯となる木組みを板で挟んだ構造のもの。つまり中が空洞なのだ。
このフラッシュ構造、実は日本では一般的だが、海外ではあまり普及していない。

フラッシュ構造のメリットは、先ず軽いこと。そして経済効率が良いことだ。
中身が空洞であれば軽いし部材も少なくて済む。また、輸送や組立も容易であろう。
海外では、家具の重さをあまり気にしないのかも知れない。

こうしたメリットがある反面、フラッシュ構造の家具は製造に手間がかかるというデメリットがある。ビスで留める場所など、空洞ではまずい箇所を設計段階で予め計算する必要があるのだ。

豆鉋(まめかんな)

豆鉋は、とても小さな鉋だ。
よく、小さい鉋が売っているのを見かける。
しかし、そうした小さな鉋と豆鉋の大きな違いは、豆鉋は作るものに合わせて作り直した専用の道具であり、一方普通に売っている小さな鉋は特定のものを意図していないことだ。
そのため、職人は新しいものを作るたびに、どんどん豆鉋が増えていくのだ。
ある椅子の曲線部分専用の豆鉋や、脚の部分専用の豆鉋といった具合だ。
だから、豆鉋はどこにも売っていない。

木工房シンの職人たち

木工房シンの職人たち
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木工房シン