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福島県会津若松市 山田木綿織元 縦模様の厚手生地”会津木綿”

福島県会津若松市 山田木綿織元

木綿の栽培の北限、会津

会津地方で綿花栽培が始まったのは、天正年間。
当時会津地方を治めていた蒲生氏郷の産業振興の一つといわれている。

それ以降、長く会津地方は綿花栽培の北限といわれてきた。
木綿の原料となる綿花は、ある程度気温が高くなければ育たない。
盆地である会津地方の夏は、ある程度気温が上がり綿花の生育を助けたのだ。

会津木綿

天正年間、会津で綿花の栽培が始まると、その綿を使って織物も始まったといわれている。
当時、会津地方を治めていた蒲生氏郷の前任地は伊勢松坂である。
松坂にも、会津木綿と同じ綿織物の松坂木綿がある。

そして蒲生氏郷の後に領主となったのが、伊予松山を国替えとなった加藤良明である。
松山にも伊予絣という綿織物があり、この時に松山から連れてきた技術者によって、会津の織物生産が盛んになったという。

このように、会津木綿は織物先進地の関西の技術を取り入れながら発展し、さらに江戸時代に保科正之が綿栽培を奨励したことで、生産量が増加した。

こうして盛んになった会津木綿は、関西の綿織物と比べて厚みがあるのが特徴だ。
これは、会津地方の気候が寒冷のために綿の繊維が短いために、紡いだ際に糸が太くなってしまうことと、さらに、厳しい冬に保温効果のある厚手の生地が好まれたことが、理由といわれている。

福島県会津若松市 山田木綿織元

山田木綿織元

今回お話を伺ったのは、会津若松で会津木綿を作る山田木綿織元の3代目山田悦史さんである。

山田木綿織元は、現在6名で会津木綿を作っている。
創業者は、手織り機(手機)を作る大工だったという。
そして山田木綿織元を操業した時代は、ちょうど力織機(機械織機)が出回り始め、繊維産業がまさに先端産業であった頃である。多くの人々が新たに力織機を手に入れ、会津木綿の生産を始めた時代だ。

その後、大正時代の最盛期には、大小30もの工場が会津木綿を作っていたという。
しかしそれを頂点として徐々に工場は減し、昭和50年代には9軒程度にまでなった。
そうした時代を乗り越えて、山田木綿織元は今も会津で会津木綿を作っている。

現在の山田木綿織元の工場の建物は、昭和20年代に建てられたという。
木造で、中はとても広く空気は冷たい。
夏の盛りでもエアコンはなく、扇風機を2週間程度使うだけだという。

福島県会津若松市 山田木綿織元

そして、この中に整然と並ぶのが“豊田式力織機”である。
どれも、大正の末から昭和の初期の機械だ。

最新の織機と違い、1台の織機で1日に織れる生地は2反程。
生地の幅は、37センチ程度。
丁度、着物を織る反物の幅と同じである。
金属の部分には、長い時間をかけて摩擦で付けられた糸筋がくっきりと付いている。

貴重な機械が今も現役で活躍している山田木綿織元だが、実は一度織機を全て失ったことがある。

「戦争のときに国策で金属類を全部出さないといけなくて、全部なくなったんです。」(悦史さん)

今ある織機は、全て終戦後に中古織機を一から集めたものだという。
こうした苦労の末、今の基礎が築かれたのだ。

福島県会津若松市 山田木綿織元

200種類以上の縦模様

会津木綿の柄といえば縦模様。
定番柄だけでも50~60種類もある。
さらに、見本帳には200種類以上の柄があるという。

昔から人々に人気の縦縞だが、作り手側にとっても利点がある。
それが、生産性が良いということだ。
生産性が良く価格が下がったことで、普段着に多く加工された。
そして普段着として使いきった後、更に雑巾や足拭きに利用される等、人々の生活を支えた。