宮城県仙台市 山田屋 独自のレシピを貫いた濃厚な赤味噌 仙台味噌

今回訪問したのは、大きな松の木が印象的な本場仙台味噌の醸造元山田屋である。
六代目、山田周伸社長にお話をうかがった。
村田出身の初代が山田屋を創業したのは、明治2年のこと。
ちなみに初代をさらに遡ると、出身は福井だという。
店の入り口には、その出身地である福井商店の文字が刻まれている。
仙台といえば伊達政宗が有名だが、山田屋が醸造している仙台味噌は、その伊達政宗が日本で初めて工業的に生産した味噌として有名である。
仙台味噌のエピソードといえば、伊達政宗がまだ岩出山にいた頃、朝鮮出兵に際し多くの大名が持参した味噌の中で、伊達家の味噌だけが腐らなかったというもの。
そんな仙台味噌の特徴が、大豆の旨みを凝縮した濃厚な味である。
この仙台味噌の旨み、実は大豆の加工方法に秘密があるという。
多くの味噌は、醸造する際に原料となる大豆を煮て加工する。
しかし仙台味噌の場合、大豆を蒸して加工する。
この大豆を蒸すという作業が、ポイントとなる。

大豆を蒸すことで、大豆の中の旨み成分のもとが脱げ出さず、大豆に閉じ込められる。
山田屋では、当初の2倍の大きさになるまで大豆を蒸し、これに麹と塩を加えてじっくりと完熟させる。


こうして、アミノ酸などの旨み成分を豊富に含んだ濃厚な味の味噌が出来上がる。
山田屋では、140年以上かけて培ってきた独自のレシピで、旨みたっぷりの仙台味噌を造っている。
山田屋は仙台から車で一時間程の、温暖で果物作りが盛んな亘理町にある。
江戸時代、亘理領主は亘理城主の伊達家であった。
山田屋の初代が生きた時代は、まさにそんな時代。
初代は山田屋創業前、紅花を山形に運ぶ仕事をしていたという。
そんな中、突然亘理の伊達家が所領を失うという大事件が起こる。
明治維新で、伊達家が幕府側についたのだ。
これをきっかけとして、伊達家の家臣の多くは開拓のため北海道の伊達市に移っていった。

この激動の時代に、山田屋の初代は亘理に事業を行うための土地や田を買い求めた。
まさにここから山田屋の味噌造りの歴史が始まったのだ。
亘理は、元々味噌造りや酒造りが盛んな土地であった。
「昭和40年代くらいまで、味噌屋は3軒ありました。造り酒屋も2軒ありました。」(周伸さん)
しかし今では、亘理で味噌を造っている蔵元は山田屋を含め2軒、酒蔵にいたってはなくなってしまった。
そんな中、山田屋は亘理を代表する老舗味噌蔵として、地元の味を造り続けている。


受け継がれる味
仙台味噌は、大豆の比率が高い赤味噌である。
一般的に、味噌は山間部よりも沿岸部での需要が高いといわれる。
山田屋が創る仙台味噌は大変濃厚な味が特長で、沿岸部の人々の好みをしっかり掴んで多くの固定ファンを持っている。
そんな山田屋に周伸さんが戻ってきたのは、平成元年のこと。
「大学を卒業してすぐ、保険会社に就職しました。」
3年ほど勤務した後、山田屋に戻ってきたという。
当時は、バブル景気の真っ盛り。
戻るきっかけは、

「親父が戻れと(笑)。まあ、初めから戻ると思っていましたけど。子供のときは家を継ぐなんて、言われたことなかったですけどね。(笑)」
学生の頃には、父親と戻るという話しをしていたという。


受け継がれる山田屋の嘗め(なめ)味噌
山田屋を取材に訪れたとき、丁度仕込み時期だったのが、嘗め(なめ)味噌である。
嘗め味噌とは、野菜などにつけて、そのまま食べる味噌のこと。
嘗め味噌には、麹から醸造するものと、通常の味噌をベースに加工するものの2種類がある。
いずれも直接食べる味噌のため、味の良し悪しがはっきりと分る。
そんな嘗め味噌を、山田屋では秋と春に年3~4回造る。
夏に造らないのは気温が高く、麹が焼けてしまうため。
また、冬は気温が低くて麹が死んでしまう。
味噌造りで一番気を使うのは、麹造りだという。

麹は、米に麹菌を繁殖させて作る。
この作業を“はぜ込み”という。
これを山田屋では44時間かけて行う。
特に気を使うのが“はぜ込み”の後半戦。
麹菌が大量の熱を発生させるのだ。
発生した熱は、そのままにすると麹が焼けてしまう。
また冷やしすぎると、麹が死んでしまう。


「仕込んだその日はそれ程熱は持たないですけど、翌日の夕方からだんだん暴れてきて。。明日の夜は寝ないで1時間くらいおきに見にきます。」
そして、
「ちょうど22時を過ぎたあたりから、どんどん熱が上がってきて、”急げ急げっ”て掻きまわすんです。(笑)」
熱が上がってくると、米に空気を当てるファンがフル稼働する。
“はぜ込み”で重要なのは、品温を一定に保つこと。
この良し悪しが味噌の味に直結する。
周伸さんが山田屋に戻ってきた当時、5代目の父親と叔父がこの作業を行っていた。
周伸さんは今、ファンの風を下から当てている。

「わたしは下から当てるんですが、叔父は上から当てるんです。」
実は、周伸さんも以前は叔父と同じ上から風を当てるやり方をしていたという。
「やってるうちに下からのほうが良いぞって思って。ここ一年くらい下からしてるんです。うちの父は、上からだったり、下からだったり、その時々で替えてました(笑)。」
山田屋のはぜ込みには、家族の思い出が詰まっている。
そんな5代目は震災の年の6月に、さらに叔父さんもその翌年に他界された。
そして気になる7代目について伺ってみると、
「子供はまだ学生です。跡を継がせるとか、まだ全然話していないです。」


蔵
山田屋には、立派な蔵がある。
「これは明治20何年から建ってるので、初代のころからです。」
大正中期には、今あるほぼ全ての蔵が建ったそうだ。
そして、その中の一つを指さし、
「子供のときはここが原料倉庫でした。中に米と大豆があって。大豆は麻袋に入ってて、中で敵と見方に別れて大豆のぶつけ合いです。大豆で戦ですよ。丁度麻袋が土嚢みたいでね(笑)。」
蔵の天井は、太くて重そうな梁が屋根を支えている。

木造の蔵は、木や壁が呼吸するため、水分調節がし易く味噌作りに大変適している。
しかし、頑丈そうな蔵も東日本大震災では、瓦と壁が大分落ちたという。
今は、黒板になっている蔵の外壁は、震災前は白壁だったそうだ。
「ここの壁は、よく弟と野球の球を当てて遊びました(笑)。」山田屋の蔵には、家族の思いでがたくさん詰まっている。
